一里塚
◆江戸幕府と一里塚
 江戸時代の始め幕府は日本橋を起点とし、全国規模で各街道の両側1里を36町(約4km)として1里ごとに小山を築き目印となる木を植え、行程の目安、木陰による休息の場となるよう図ったものと言われています。
慶長9年(1604)、将軍徳川家康は秀忠に「一里塚」を作るよう命じ、それは2月4日で、この事業の総監督にあたったのが、金山奉行の大久保長安であったとも言われています。
当代記(綱吉の時代) 等によると「一里塚五間四方(9m)なり」と記載がありますが、各地に残る一里塚の多くは直径10m〜13m程度の円塚です。また高さは一間半から二間程度(2〜3.6m)で、当初はその上に榎(えのき)や松が植えられました。
その後、街道の変更、街並の整備、災害などで無くなったり、移動したりしましたが明治になるまでは街道を旅する人達の重要な目標になっていました。


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