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伊能忠敬測量隊と保土ヶ谷宿

 伊能忠敬は寛政12年閏4月19日(1800,6.11)〜文化13.10.23(1816.12.11)まで約17年間、日本国内を測量しています。
 江戸深川の隠居宅(Googleマップ)を出発して、全国への測量の旅を行っていて、東海道や本州の海岸線に沿って測量しながらの旅であったことが記録や現存する伊能図から知ることができます。
 その中から我が保土ヶ谷宿と関係あることがらについて述べます。

 なお、伊能忠敬については「伊能忠敬と伊能図の大事典(inopedia)」を参照してください。
 本稿執筆にあたり、伊能忠敬研究会名誉代表 渡辺一郎氏の助言を戴きました。
宿泊と通過
 下記の表の通り、4回宿泊、5回通過している。
測量次行き日付帰り日付
第二次(本州東海岸)
Googleマップ
桔梗屋利兵衛 宿泊享和元年4月4日
(1801.5.16)
通過享和元年6月5日
(1801.7.15)
第四次(東海道・北陸)彦右衛門 宿泊(*1)享和3年2月26日
(1803.4.17)
第五次(紀州半島・中国)
Googleマップ
宿泊宅 不明(*2)
恒星測定
文化2年2月26日
(1805.3.26)
通過(昼食)文化3年11月14日
(1806.12.23)
第六次(四国沿岸・大和路)通過文化5年1月26日
(1808.2.22)
金子屋八郎右衛門 宿泊文化6年1月16日
(1809.3.1)
第八次(九州第二次)通過文化8年11月26日
(1808.2.22)
第九次(伊豆七島)通過文化12年4月28日
(1815.6.5)
  第九次測量は忠敬自身は不参加。 Googleマップは歩程を試験的に表示しています。
◆第二次、桔梗屋利兵衛宅(旅籠屋)宿泊
 本州東海岸測量時に、苅部本陣から京方面へ九軒目(元治元年の絵図)の桔梗屋(Googleマップ)に宿泊しています。この日の朝、川崎宿の鶴屋十右衛門宅をたち、測量しながら保土ヶ谷宿へやって来ました。
 翌日は東海道を江戸方面へ戻り、保土ヶ谷道に入り海岸へ出て、可能な限り海岸線に沿って南下し、本郷村(現:本牧大里町あたりか)の組頭幸蔵宅に宿泊し、恒星観測を行っています。
 神奈川宿からの海岸線は歩行不能だったのです。開港時に横浜道が建設されるまでは横浜村へ行くにはこの保土ヶ谷道を通らざるを得なかったのです。
 概要はアメリカ大図を加工した横浜付近図を参照してください。

 帰りは平塚宿、戸塚宿、川崎宿に宿泊し深川隠居宅の経路でした。藤沢宿あたりから東海道を測量しながら保土ヶ谷宿を通過したのではないかと思われます。
 画像(png)は見づらいため詳しくみたい場合はpdfを参照してください。
保土ヶ谷宿町並全図(元治元年)(pdf 164KB)
◆第四次、彦右衛門宅(旅籠屋?)宿泊(*1)
 川崎宿(九重郎宅宿泊)、保土ヶ谷宿に宿泊。ただし、保土ヶ谷宿には「彦右衛門」の旅籠屋はありません。第四次までは忠敬の個人事業だったため測量隊の人数は少く、それでも保土ヶ谷宿には7名が宿泊したとのこと。したがって桔梗屋規模の旅籠屋に宿泊したと考えてよいでしょう。
 以下、推測になります。彦は善の誤字とすると鍬屋善右衛門が該当します。現在の保土ヶ谷税務署付近(Googleマップ)にあった旅籠屋です。保土ヶ谷宿には善右衛門の他、×右衛門の旅籠屋はありません。
 翌日は藤沢宿(又兵衛宅宿泊)まで行っています。
◆第五次、宿泊宅不明(*2)
 第五次から幕府の事業となったため、測量隊の人員も十数名となり本陣に宿泊した可能性が高いがなんとも言えません。また夜、恒星観測も行われていて、恒星観測には10坪以上の開けたところが必要とのことで、本陣の庭から観測されたのかもしれませんが、本陣文書に記載はありません。
 伊能図の恒星観測位置(☆)は本陣の隣、桔梗屋の位置に印されています。この時代には東海道分間延絵図も編纂されていて、本陣と桔梗屋の中間に空地があり(現:エスポワール保土ヶ谷の位置)、ここで行ったのかもしれません。
 この時期だけ空地で東海道絵図(元禄の頃)は空地はなく、東海道保土ヶ谷宿往還町並絵図(元治元年)は村田屋万十郎とあります。子孫の金子さん(本陣復元図の制作者)から、新町が出来た頃から旅籠をやっていたというが「分間延絵図」を見たとき空地だったのでショックだったと話をうかがったことがあります。
『火災で疎開していたのでは?』「なるほど、だけどさぁ簡単に結論づけて欲しくないね」などと会話をしたことがあります。
 別の考え方:第二次、桔梗屋利兵衛宅、第四次の鍬屋善右衛門宅(?)、金子屋八郎右兵衛(脇本陣)のいずれも飯盛女が居ました。したがって堅苦しい本陣には宿泊しないで、飯盛女がいた旅籠屋か脇本陣に宿泊したかもしれません。恒星観測位置は藤屋四郎兵衛(脇本陣、飯盛女が居た)の位置でもあります。つまり保土ヶ谷宿では飯盛女いた旅籠屋に宿泊したのではないだろうか?
 保土ヶ谷宿の規模の変遷も参照してください。
◆第六次行き通過、帰り金子屋八郎右兵衛(脇本陣)宿泊
 第八、九次は通過
 これらの測量は目的地へなるべく速く到着したいため、測量機材を携行しながらも第五次までより1日の移動距離(ほぼ7里の歩程)も長くなっています。第五次測量では東海道を再度測量しているため時間がかかっているとみてよいでしょう。
第五次まで
 深川隠居宅→川崎宿→保土ヶ谷宿→藤沢宿→大磯宿→小田原城下→箱根宿→三島宿→原宿→
第六次以降
 深川隠居宅→神奈川宿→藤沢宿→小田原城下→三島宿→吉原宿→
 即ち、三島まで7日かかっていたものが4日に短縮されています。
 ただし、一般の旅人は江戸→戸塚宿→小田原宿→三島宿とさらに1日短いが、測量機材を携行して九州などへ行くことを考えると妥当です。いずれにしても現代人にとっては気の遠くなる測量行です。
 筆者注:私も江戸時代の旅人にならって10里/日で東海道を歩いていますが(現在藤枝までで休止中)、毎日10里は厳しい。電車で目的地まで行き10里歩いて電車で戻っていますが戻らずに翌日も10里はきつい。西へ(四国、九州など)行くのが目的ではなく、現地に到着してからが仕事で、終えたらまた歩いて江戸まで戻る旅でした。伊能測量隊と同様な行動は歴史上、先にも後にもありません。
 第六の帰り、行きに通過して約1年経過した帰りに金子八郎右兵衛(脇本陣、保土ヶ谷では大金子屋と呼ばれる)に宿泊しています。脇本陣ですが飯盛女がいました。また帰りの宿泊地も興味深いというか面白い。大磯宿から神奈川宿までは十分行けると思いますが保土ヶ谷泊まりで、翌日は無理して深川まで帰らないで品川に泊まっていることです。1年強の測量の旅の打上げを品川宿でやって帰宅したのではないでしょうか。俗人の面影を感じてほっとします。
第六次の帰り
→由比宿→原宿→箱根宿→大磯宿→保土ヶ谷宿→品川宿→深川
◆国会大図の間違い
 国立国会図書館に所蔵さている伊能大図の写図で大日本沿海輿地全図だいにほんえんかいよちぜんずに最も近いと言われている大図ですが43枚しか所蔵されていません。
 これに対して米国議会図書館(アメリカ大図と言われる)に所蔵さている大図は214枚中207枚が揃っています。ただし国会大図に比べ簡略されていて、彩色がされていない図が多い特徴があります。
 問題は国会大図において保土ヶ谷宿の測線が間違って引かれています。多分写し間違いと思われます。
比較画像

 
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